黙祷と自分の行動に違和感

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先日、私が髪を切ったことに

夫が気づいてないようだったので、

 

私「今日、髪切った、わかる?」

夫「ボクは、昨日、切りました」

 

あちゃー!全然、気づかなかった!

 

これからは、まずは、夫の髪型の変化に

気づくことからはじめてみます。

 

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【黙祷のこと】

 

大きな災害やテロが起きた日に

黙祷が行われるけれど、

 

世界中では、

小さい大きいに関わらず、

理不尽なことが原因で

亡くなるヒトがいて、

 

亡くなったヒトが多かった日だけ、

黙祷する〝自分の行動″に、

違和感を抱くようになり、

 

テレビやラジオ、集会などで、

「今日は、〇〇のあった日です。

〇時〇分、黙祷。」

と、大きな災害や大きなテロの日に、

年に数回だけ、黙祷するのは、

自分はやめようと思ったのが2年前。

 

世界中、毎日、いろんな理由で、

誰かが亡くなっていて、

ニュースにもならず、

誰にも知られず

亡くなるヒトもいて、

 

さらにいうと、

どうぶつも昆虫も、生き物すべて、

大きい小さい、多い少ないに関わらず

日々、亡くなっている。

 

だから、

インパクトが大きかったときだけ、

多かった日だけ、

黙祷する〝自分の″行動は、

不公平だなと感じたのです。

 

そもそも、黙祷ってなに?と

用語の定義を調べてみると

 

無言のまま心の中で祈ること。

by デジタル大辞泉(小学館)

 

漢字では

『黙』・・・だまる
『祷』・・・祈る

という意味をもち、

英語では、pray silently、静かに祈る。

 

ある出来事だけの

年に数回だけの黙祷をするのは、

もうしないことにしよう、

と、思ったのですが、

それはそれで、違和感があり、

なんだか、腑に落ちない。

 

あ、そうか、

毎日黙祷すればいいのか!と

気づきました。

 

そして、思い出しました。

 

昔、イギリスの代替医療の

学校にあった

畳ひとつ程度の

めちゃ小さな視聴覚室で

勉強していたときのことを。

 

3人はいるとぎゅうぎゅうになる

その小さな視聴覚室は

いつ行っても、わたし1人。

 

ただ、同じ時間帯に、毎日数分だけ、

イスラム教の女性生徒がやってきて

お祈りをしていました。

 

最初のうちは、

「勉強中にソーリー」といいながら、

少し控えめながら、

お祈りをはじめ、

頭を地につけておじぎをしたり、

儀式の一連をして

退室していきました。

 

最初は戸惑っていた私も、

そんな日々が続いていくと、

視聴覚室での日常の一部となり、

彼女もソーリーという

コトバもなくなり、

わたしも、それが当たり前となり、 

 

彼女がくると、

お!お祈りの時間だな!と

互いに“アイ”コンタクトで挨拶をし、

真横でお祈りをする女性を

感じながら、勉強する日々。

 

視聴覚室で勉強するわたしと、
お祈りをする彼女。


個と個が尊重されているような

空間を感じていた記憶があります。

 

毎日、黙祷しようと思ってから、

彼女を思い出し、

イスラムのニュースを観ると、
度々、思い出します。

 

1日1回1分黙祷しようと

思ってから約2年。

 

黙祷をしてみると、
自分が何を祈りたいのか、
あっちこっちに思考が巡ることに
気づきます。

 

自分に余裕がないときほど、
1分の黙祷に

自分が救われたり、

自問自答の時間に

なってしまうこともあるし、

忘れてしまうことも

多々ありながらも、

続けていこうと思っちょります。