喜怒哀楽の「怒」はもういらないぜ

ある友人が「わたしの人生に”怒”はいらないんだ。”怒”って楽しくないんだもの。喜怒哀楽って誰がつくった言葉か知らないけどさ、もうね、これからの人生は”喜哀楽”だけでいいの」と言った。

それいいね!と思った。

喜怒哀楽があるから人間なんだ、人生には喜怒哀楽があるのが当たり前なんだ、なんていう固定概念が私には根付いていたが、誰がそんなことを決めたというのか。わたしだ!わたしがその観念を根付かせていた。

”怒”の感情は捨てよう、これからの人生に”怒”なんていらないぜ、と思った。捨てちまおう!捨てちまおう!って。

”怒”を否定しているわけではなく、”怒”は二次感情だから、一次感情をしっかり受け止めることができれば、怒りとして表現することはなくなるというのだ。

また、ある友人は「幸せのシナプスを強くしていくと、少しづつ怒りのシナプスが死んでいく。何かあっても、意識的に幸せなほうはどっちかなぁと幸せの選択を続けていくと、少しづつ、怒りの神経が消えていくと思うんだよ」と。

2人の友人は、宗教に入っているわけではない。

その2人の友人たちには、子どもがいる。この友人たちに共通していることは、子どもたちと話すときの雰囲気や話し方がとても穏やかで優しいことだ。

 「子どもと話すときは、誰と話すときよりも一番、気をつけている、自分の感情を意識している。大人と話すとき以上に、丁寧に伝わるように話すように気を付けている」と友人。

もう一人の友人は「これは、私が思うことだから、一般的には、受け入れられないかもだけど・・・子どもに対して、感情をむきだしに怒るっていうのは、子どもに甘えてるという一面があると思う。

だってさ、職場とかでさ、感情をむきだしになって、怒鳴らないでしょ。自分の子どもだけに、感情的になって怒るのは、その前提に”子どもは許してくれる”だろう、“親だから怒ってもいいだろう“という気持ちがあるのかな、無意識の甘えみたいのがあるのかなって。自分の経験と持論だから、一般的にはウケはよくないだろうけど。

親も必死なんだって、親も大変なんだって、親は躾のために怒るんだって、子どもの将来のためを思って怒るんだって、なんていう人もいるけど、

だからといって、感情的に怒っていいことにはならない、私は思う。気を抜いたり、疲れたりしていると、つい感情的になる自分もたまにいるけど、そのときは、子どもに甘えたなぁ自分、と思う」と。

子どもだからこそ、大人と話すときより、より丁寧を意識してちゃんと伝わるように話す。子どもは親を許してくれるという存在ということを、いや親を許せずには生きていけないという存在ということを肝に命じ、だからこそ、気をつけなければならない。そうなのだ、気をつけるか、気をつけるのだ。意識をもつだけでも、だいぶ違うだろう。

そして、つい感情的に怒ってしまって、落ち込んだときもあるだろう。そんなときは、「仕方ないよね、そんなときもあるよね」と自分を自分で慰めるのだ。「落ち込むってことは、親として成長したいってことなんだ」と自分を承認するのだ。「いまは、まだプロセスなんだ」と自分を肯定するのだ。「親としての成長の途中なんだから」と自分を励ますのだ。